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― なぜ、ひとりでもどもるのか ― |
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話し方が不明瞭であったり、早口で舌が絡まる話し方をしていることを「滑舌が悪い」という表現を使いますが、これは吃音(どもり)とは区別されます。表面上、ことばがよくひっかかっていても吃音意識がない限り発語上ひっかかっているだけであって、心の領域にまで発展していないものです。 これは、幼児期のことばの発達段階での吃音にも言えることで、吃音が出ているからということで必ずしも吃音意識があるいうことではありません。幼児期で比較的多いのが「仮性の吃音」で、これは吃音意識が根付いてない吃音状態です。幼児期は自意識が浅いので自分の発語をチェックする意識は大人に較べて弱く、表面上ことばがひっかかっているからといって吃音意識を持っているわけではありません。一方、「真性の吃音」は吃音意識が根付いていて、心の領域に及んでいます。 ■緊張するからどもるという訳ではありません。 緊張するからどもるのだ、緊張感を弱めれば吃音は出ないと思う方がいらっしゃいますが、緊張していなくても吃音は出るものです。日常、吃音を多く出していますと、その発語感覚が身についてしまい家族などとのリラックスした場でも無意識にことばがひっかかります。 更に、他人がいない自分独りだけの部屋でも、朗読をすると言いにくいことばでしばし止まってしまったり、特定の音が言えないという場合もあります。緊張する場でもなく、発声器官に何も障害がないのになぜ言えないのか・・・実に不思議です。 ■なぜ、ひとりでもどもるのでしょうか? それは心の中に、ことばを言おうという自分と、上手く言えるかどうかをチェックする自分の2人の自分がいて、チェックする自分(意識)が牽制(けんせい)している状態だからだと言えます。 過去に何度もひっかかりを経験していますと、チェックする自分が「言い難いことば(音)が近づいてきたぞ。本当に言えるのか?」という信号を、言おうとする自分送ります。心の中に絶えず話し方をチェックする“試験官”がいるのです。試験官の問い(ハードル)にいかに答えて飛び越えていくかの状態が心の中で常に設定されてしまいます。 このチェック意識が肥大化すると、日常会話で発語を一語一語チェックするようになり、自然な発語の流れが寸断され、歪められた発語感覚が定着していきます。ひとりだけで音読する場合でことばが詰まるという場合は、発語をチェックする意識が本人の意識するしないに関わらず、常習的に働きかけて、心の中の相剋(そうこく)を引き起こしている状態です。 ■吃音意識を取り除こうとすることは無意味なことです。 吃音は学習したことですので、吃音感覚は心の記憶の引き出しにちゃんと収まっています。緊張感を緩和させるために精神安定剤を飲んだからと言って吃音意識が軽減されるという訳ではありません。吃音意識を作為的に取り除こうとすればする程、こだわり意識が助長されるものです。 ■安定した発語感覚を育てていくこと。 言おうとする自分と牽制するもうひとりの自分。この二者の相剋をそのまま受けとめつつ、日常の生活の中で安定した発語感覚を育てていくことが健全な方向だと思います。 topへ |
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対人関係での囚われ意識を軽くするために |
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吃音意識を持ちますと、当然ながら自分の話し方に関心が向けられるようになります。「ひっかからないように話さなければ・・・」「自分の吃音を他人に知られないように上手く話さなければ・・・」と、他者が自分をどう見るか、自分はどう見られるかが気になってきます。吃音イコール神経症ということではありませんが、過度なこだわり意識は神経症と部分的に重なっているように見受けられます。 私自身、一時期は吃音神経症ともいえる話すことへの囚われ状態を経験しました。私自身の経験と今まで接した方々の症例から、囚われ意識、こだわり意識に発展していく共通した心の動きを、吃音と関係の深い対人恐怖と重ねて考えてみたいと思います。 ■対人恐怖症と話すことの不安 人と話す時にひどくあがってしまう赤面恐怖、視線がひどく気になる正視恐怖などの対人恐怖症は、吃音同様、人間関係でもたらされる障害です。 対人恐怖の人は、もともと人と親しみ友好的な関係を持ちたいと願っているのですが、その反面、人から嫌われないか、軽蔑や無視されるのではないかという恐れ、警戒心が強くあります。 社員が社長室に呼ばれる時など、自分より目上の人や自分がよく思われたいと思う人の前に出るときは誰でも緊張感・不安感を感じるものであり、そのような感情を抱くのが心の自然な動きなのですが、対人恐怖を強く持つ人は「不安感、圧迫感を感じないで平気で人に接していけることが本来の姿だ」という基準を心のどこかに設けていることが多く、その結果、現実とのズレに苦しむことになります。自分の心にある「こうあるべき」という基準で、現実に浮き上がってくる感情を否定し押し殺していくことにより、過度なこだわり・囚われ意識へと進展していきます。 また、相手の視線を強く意識する正視恐怖についてですが、これも赤面恐怖と同様、心の中の基準と実際の感情のズレから生じるように思います。 初対面の人と話すとき視線を全く意識しないという人は通常いないと思います。何かを問い正したりする時などを除いて、相手の目を凝視しながら話し続けることは日本社会の行動様式にはありません。対面している時は、視線を一点に定めないで、顔を漠然と見たり、鼻や胸の辺り、デスクの書類などを漂うのが自然です。 欧米の方々と話をする時によく感じるのですが、彼らの視線のもっていきかたは日本人と違うように思います。人によって異なりますが、殆どの欧米人は相手の目を凝視して話します。ある時私の横に座っていた英国人が約50センチの近い距離で私の目を凝視して10分間(10分も長く感じたという方が正しいかも・・・)話してきたことがありましたが、当初は違和感を感じたものの、相手が目線を気にしていないことがわかると、私も気が楽になってきました。慣れてくるとこちらも相手の目をじっと見ながら話すことが自然となってきました。 けれど日本人の場合、目を凝視して話す習慣は心理的に抵抗があるように思います。文化的背景の違いなのでしょうか、相手が目線をそらすので抵抗感があるのがわかります。日本の社会では視線を意識するのは自然なことであって、その自然な感情を否定して「目をそらせるのは自分が弱いから、意気地がないからだ」と考え始めると、視線恐怖への道が作られていくことになります。 自分と相手を比較して、相手との勝ち負けの世界を心の中で広げる。自分が劣っていることを相手に感じさせてはいけない、負けてはいけないという心のガード。また、いつでも平常心をもって相手に接していなかればならないなどいう非現実的な姿勢を持って人と会えばぎこちなくなります。場合によってはドキドキして、汗をかきながら話している自分をOKとして、「まあ、そんなもんだ」と受けとめていくのが自然な態度です。 感情を否定して「こうでなければならい。」とするか、それとも現実の感情を「まあ、こんなものだ。」とそのまま受け止めていくかが、囚われ意識に入るか入らないかの境目かと思います。 ■トラウマ(心の傷)と吃音 自分で作り上げた非現実的な「あるべき基準」で現実の自然な感情を否定することが、神経症の溝を深めてしまうのですが、幼少時の心の傷(トラウマ)は神経症に大きく影響を出すことは周知の通りです。 父親が威圧的で家庭内暴力を受けた女性は、他の男性の怒鳴り声に敏感におびえるでしょう。父親の記憶と重なるからです。ある女性の受講生ですが、幼少の頃、親から何か問われた時すぐに答えないと叱られたことが、人から何か問われる際にすぐに答えなければと焦りが反動的に浮き出て、吃音が出るようになってしまいました。 私は幼少の頃から無意識にどもっていましたが、自分の話し方で笑われたときから、「どもると笑われる。どもらないように話さなければいけない」と考えるようになり、自分の話し方と人の反応に大変神経質になっていきました。職場での電話対応で一度気後れ体験をすると受話器をとるのが恐怖となるのも同様です。 ■完全主義は捨てましょう。 窓ガラスはいつもきれいでなければならないと決めている人にとっては、土ぼこりがちょっとついていても気になるものです。体の調子はいつもベストコンディションでなければならないと考えている人は、ちょっとした不調でもひどくイライラします。 完全でありたいという思いは人としての欲望でもありますが、そもそも完全というものは観念であり、それを生活の中で要求したら切りがないし、現実にはあり得ないものです。家の掃除にしても、どの程度に掃除したらよいのかの基準はまちまちです。毎日大掃除をするぐらいの覚悟でやるのか、ほぼ一部分を片づけて良しとするのかは自分で決めていくことですが、神経症傾向が強くなりますと、髪の毛一筋落ちていることもイライラの対象となってしまいます。 吃音で完全主義的傾向を持ちますと、言いにくいことばを言い換えている自分が許せない、人前で話す時、緊張感があってはならない、心に余裕がなければならないというような自分の「あるべき基準」を尺度としてしまいます。当然自分の話し方にますますこだわり意識が入ってきます。 「〜でなければならない」「〜であるべき」と思うことが多いなら完全主義的傾向、規範型といえますので、必要に応じて「〜にこしたことはない」に意識変換していくことをお勧めします。 ■心の鎧(よろい)を外しましょう。 相手に自分の弱さを知られてはならない、話し方で相手に劣っていると思われてはならないという自己防衛心が強くなると人と話す時どこかに力みが入り、自然な態度がもてなくなります。身近な親しい人と話す時、職場で初対面の人と話す時とでは話し方も異なるでしょうが、過度な自己防衛の鎧は外して、適切に自分を表現できる心の余裕を育てていきたいものです。 topへ |
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